御由緒
鎮座地
例祭日
京都市西京区大原野灰方町575
10月21日
養老2年(718)2月の御創建で、延喜式神名帳山城國122坐中の大社51社の一つに列せられる式内大社である。(神名帳には【大 月次 新嘗】と記される 大社/月次祭に幣帛を受ける神社/新嘗祭に幣帛を受ける神社)大歳大神を主祭神とし、相殿に石作大神、豊玉毘売命をお祀りする。
御神徳は農耕、祈雨、生産、厄除の神様であり、境内は栢の杜(かやのもり)と称し榧の木が茂り、栢大明神と親しまれてきた。平成7年に京都市の史跡に指定され、栢の実より油を搾り御神灯として使用、紀貫之(古今和歌集の選者)は当社を「かへの杜」と詠った。
大歳の名について本居宣長は『古事記伝』(1798)に「大は稱へ名、トシは田寄の義、田寄を約めるとトシと読む、この神の御霊を以て田を作り、その田より天皇に穀物を寄しまつり給ふ」と記されている。
相殿神「石作大神」は代々石棺などを造っていた豪族の始祖であり、垂仁天皇の皇后、比婆須比売命がお隠れになった時、石棺を献上し、「石作大連公」の性を賜ったと伝わる。合祀年は不詳であるが、社家口伝によると江戸時代後期である。昭和49年愛知県岡崎市石工団地神社に分神する。
現在の御本殿(一間社流造)は元禄3年(1690)の建造物であり、昭和16年に長岡天満宮(長岡京市)より移築。同年遷座祭を執り行う。元の本殿は延宝8年(1680)に建てられたものでありましたが、老朽化した為と伝えられている。平成30年に京都府の暫定登録文化財に指定されました。
神楽殿は昭和25年のジェーン台風で倒壊したが、平成25年に氏子の篤志により再建いたした。
毎年10月第3日曜日を氏子祭と定め、江戸時代中期より引き続き金剛流家元による「翁」「栢の杜」の奉納舞がある。この辺りの地域は「翁さんにきてもらわんと稲がみのらん」と伝わっている。
現在、栢の杜を再生するために氏子の皆さまと奮闘中。
「影とのみ頼むかひありて露霜に色変わりせぬかへの杜」 紀貫之
延喜式神名帳 延長5年(927)(国立公文図書館)
栢社(かやのやしろ)は灰方の南、林の中にあり。祭るところは大歳神にして、向日社の地主神の御母なり。例祭は九月二十一日。拝殿において能あり。このところの産沙とす。
都名所図会 天明6年(1786)(国際日本文化研究センター)
【丸に並び矢】
御神紋について
社伝として鵜葺草不合命が金蔵寺に出現、御父母の居場所を定めたという説がある。三本の矢を東方に放ったが、一本目は井ノ内に止まり御父、火遠理命を祀る角宮神社に。二本目は栢の杜に止まり御母、豊玉毘売命を祀る当社に。三本目は勝山に止まり、「我、勝山に留まるべし」といい、消え失せ、向日神社となる。当社の御神紋である「並び矢」はこの故事による。