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​大歳神社と金剛流について

大歳神社と金剛流の「翁」奉納の関係についてお尋ねを受けることがしばしばございます。都名所図会(天明6年1786年)に「拝殿において能あり」と記すのみで、詳しい事を書いた文書は現在、大歳神社にも金剛家にもございませんが、この関係について、二十四世金剛流宗家 金剛巌氏が著された「能と能面」(昭和15年発行)という本に、関係のある箇所がございますので、抜粋いたしました。
大歳神社と金剛宗家による「翁」奉納に特別の意味があるということもご理解頂けるのではないかと思います。
江戸中期(昭和61年に発行された長嶋正彦前宮司著の「石作郷神社記」に掲出)から今日まで連綿として受け継がれて来た尊い文化を次の世代に伝えていくことは、現代に生きる私達の責務であると思っています。

翁 金剛流 大歳神社 祭事

【能と能面】

 

二十四世金剛流宗家 金剛 巌 著

 

大歳神社 祭事 神楽殿

​神楽殿竣工(平成25年)

氏子祭 金剛流 大歳神社
大歳神社 祭事 金剛流
​翁さん

稲の花が散ってそろそろ実のはいりかける十月の初めになると、洛西灰方村の長嶋正輝氏から手紙や電話で翁さんの催促がつぎつぎとやってくる。長嶋氏は乙訓郡灰方村大歳神社の神職である。神職といっても神社に住んでおられるのではなくて、おそらく農業であろうが、その家業のほかに神職をこととしておられる家の方である。大歳神社は延喜式に見える乙訓郡の大社で、御祭神は松尾神社の御父神にあたる大歳神と玉依比売とで、同郡にあった石作神社から石作神が合祀せられている。石作神とはその土地にいた石作連の祖で、この地方は灰方や石見などの地名からわかるとおり古来良質の石灰を産してきたのである。
この神社に古い能舞台がある。尤もこれも先年の風害のために荒廃してしまい、いまでは拝殿のまえに鳥居立ちになっている亭々たる二本の大杉が往時の面影をとどめているばかりである。この能舞台で毎年十月二十三日の秋祭に、翁を勤めに私の家の者が出かけることになっている。これが百年やそこらのむかしからではないらしく、思うに祖父野村三次郎の祖が近州衣川の城主から落魄して御所へ逃げこみ北面の武士となり、のちに能楽師に転じた時をあまくだらぬころから始まったことらしい。家のものも村の人たちもいつからこのことが始まっているか知らないのである。
ただ「翁さんにきてもらわんと稲がみのらん」といまだにこの村の人たちは考えておられるので、10月21日が当家の例会にでもあたると、いつでもよいからと3日でも4日でも猶予せられるものだから、私の家でも毎年欠かさず勤めて
いる。あちらでもきてもらえることにきめてをり、こちらもゆくときにきめている。で別に出迎いの人もきておらない汽車の向日町の駅から丘二つ越えて西へ一里、衣裳の行李や面の箱をさげて歩いてゆく私たちもやはり「翁さんにきてもらわんと稲がみのらん」という古い信仰やしきたりに、知らず知らずに従っているのであろう。色づいた稲田の間に潺々(せんせん)たる小流あり、よく耕された竹林あり、まことに京の田舎らしいのどかさで、この田野がそろそろ山際で尽きようとするところに大歳神社がある。神社から出てきた村の人が私たちの姿を見つけるとあたふたととってかえしたりする。先年までは息子の勲をやらせていたが昨秋は弟の方の滋夫をやらせたところ、衣裳をつけているはたへお百姓さんたちがきて「謹之輔さんによう似た人やなァ」といって、昨年十七回忌を営んだ亡父の噂がひとしきり出ていたそうである。いまは秋祭りに参列した小学校の生徒さんたちが、形も小さくまた切り顎になっている翁の面の顎が謡うにつれて動くのを見てくすくす笑っているそうだが、むかしは信心深い古老たちがその詞章を同吟したり、舞っている舞台へ賽銭を投げたものである。
「翁さんにきてもらわんと稲がみのらん」
かつてはむつかしい武家の式楽となった翁もこの村では、どうしても人々の生業に入用なことがらになっている。もし須知神社の神体であった黒式の面が一年に一度とり出されてかけられたならば、その動く口を見て、人々はまことに自分たちのために神様が国土安穏と五穀豊穣を宣りたまうと有難がったであろう。幕府の儀式としての翁はあるいは神でなかったかも知れぬが、灰方の「翁さん」は本当の神様であろう。しかもくすくす笑っても決してお叱りにならぬ神様にちがいない。翁の真の姿はこのあたりにあるのではなかろうか。

昭和15年 弘文堂 出 版

昭和16年 創元社 改訂版

昭和58年 創元社 新 版

【金剛流能奉納】

 

長嶋 正彦 著「石作郷神社記」より

 

大歳神社 神楽殿

​旧神楽殿写真左(大正4年頃撮影)

大歳神社 祭事 翁

「翁面」 奉納 櫻田康夫(平成9年)

​奉納能について

​金剛家から神社例祭(10月21日)に奉納舞を演じて頂くようになったのは、江戸時代中期よりと記すのみでいつからかはよく判らない。

​世界大戦があったが、連綿として奉納は神社祭典と共に続けられた。昭和25年9月3日のジェーン台風で境内の大杉2本(樹齢約970年、870年)が倒木し神楽殿を直撃し倒壊。毎年コンパネで仮舞台を作り、紅白幕を張って、伝統あるこの行事は絶やすことなく守って来た。初代金剛巌氏、二代金剛巌氏も御奉納下さった。能舞台のある時は「翁」一番や「翁」神楽式を奉納していただいたこともある。昭和51年より10月第三日曜を「氏子祭」と定め、神楽殿で仕舞を中心に金剛一門の師匠による舞や小謡「栢の森」の奉納も頂いている。

昭和61年 出 版

小謡「栢の森」
  謹作 大歳神社宮司 長嶋正彦
  作曲 金剛流宗家  金剛 巌

白妙の 雲にそびゆる相生の 雲に
そびゆる相生の 杉は宮居を寄りいて
千歳の緑常長久に 色かわりせぬ
栢の杜 謹上再拝 謹上再拝
今日の佳日の宮廻り 拍手高く
祈るなり。 千代に八千代に言祝ぎの
翁の舞も 長閑にて。千秋萬歳の
慶びの舞を 舞ひたもう。神代乍らの
有様を 仰ぐぞかしこかりけれ
仰ぐぞかしこかりけれ


昭和五十一年十月吉日

平成30年に御創建千三百年を記念して二十六世金剛流宗家金剛永謹氏により「栢の森」に型付をして頂いた。

大歳神社と金剛流奉納舞

金剛さんが、神社で奉納能をやって頂くようになったのは、江戸時代中期より「翁」一曲を奉納と記すのみで神社の方ではよく判らない。

子供の頃、私宅の蔵の中の長持に預かっていた「翁」の面(オモテ)を、秋祭(例祭)になると出してきた。そして、面は三宝にのせ、能舞台におられる先生の前まで持っていたことを覚えている。

小学6年生になると、校長先生に引率されて参拝後「翁」の能を見せて頂くこととなっていた。学校は午後休みであった。蔵から持ち出した時くすけた様に見えた「面」は、先生がつけられ舞われると生々とした面に見えたことを子供心に覚えている。

金剛巌氏著、能と能面に「翁」は能の源泉であり、幽玄なものと記されている。謹之輔さんに師事された弥左衛門氏は、大原野から向日町駅間の唯一の交通機関であった馬車でお越し頂いて、神楽式(神職の浄衣、烏帽子付ける)を舞って頂いたと聞く。

能舞台は昭和9年の台風で、社前の大きな杉2本と共に倒壊した。その後、西籠所で永らく海老名・北川薫・掛川秀之輔・上尾徳三郎氏が仕舞を中心に連綿と奉納頂いた。

例祭の式典中に、金剛の先生方の神歌を頂いた事もあり、祝詞が清々とした気持ちで奏上出来た事もあった。灰方町在住の梶貴雄氏は、金剛流の一員として参加願っている。

金剛家系

ー禎之輔ー謹之輔ー岩雄(初代巌)ー滋夫(二代巌)ー永謹ー

​「大歳神社と金剛流」より原文のママ掲載

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