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​御祭神について

大歳神社は三柱の神様をお祀りしています

​石作神社・石作氏について

大歳神社の相殿に、式内・石作(いしつくり)神社が祀られている。石作神は代々石棺などを製作する豪族の祖神とされる。古来、死者は後世に生き返ると信じられていたため、石棺を造るのは重要な仕事であった。火明命(ほあかりのみこと)の後裔という。また、石作氏の祖は建麻利根命(たてまりねのみこと)(火明命の六世孫にあたるともいう)。石作は以之都久利と訓べし。
弥生時代の第11代・垂仁天皇(前69-70)后・日葉酢媛命(日葉昨姫命・ひばすひめのみこと)がお亡くなりになられた際、大和国添下郡佐紀郷に葬り祀られた時に石棺を献上したことから石作大連公(いしつくりおおむらじのきみ)の姓を賜った。(『新撰姓氏録』)。石作連(れん)(集落)を作り繫栄し、『延喜式神名式』巻9.10(927)記載の「乙訓郡十九座 大五座 小十四座」中に「石作神社」が列せられる。
貞観元年(859)正月27日、石作神社は正六位より従五位下に進んでいる。(『三代実録』)。
「播磨国風土記」に語る、讃岐国羽若石と播磨国竜山石の生産地とは、まさしく石作氏の支配 する石切り場であった可能性が高い。ことに大坂山石、讃岐石も扱った二上山を加えた三丁場は 石作連の管掌する主たる丁場と考えたい。石作、尾張、海部に三氏は同族ということになる。 (北垣聴一郎『日本書紀研究」『播磨国の石宝殿と石作氏」)

この地、大原野小塩山一帯から豊富に産出した石灰岩を用いて石棺を古くは築いたかと思われ (大歳神社境内古墳)、京都周辺の古墳も彼らの造った石棺が用いられたと思われる。更に、後に石材を扱った石棺で、奈良・京都・滋賀・愛知・兵庫各府県の行動範囲であったと言う。その外、石灰と砂とで造った石棺もある。石作連を祀った石作神社と、その菩堤寺である石作寺とがあった。石作とは古来の地名で、現在の灰方・長峰・灰谷・坂本・出灰(ゆずりは)・春日まで石作郷(いしつくりのごおり)と言った。石作町として現在も町名に残るのはこのためである。

『大日本史』には「石作神社、今灰方村大歳神社内に在り」と記されている。 石作寺は「山城国乙訓郡の公田五丁を元慶寺田とし、四段三十六歩石作寺に返入す」とある。(『三代実録』巻36、元慶3年10月5日)「延喜式」巻21(玄蕃寮)には「凡近都諸寺、東拝志以北、西石作以北、停預講師、僧綱検察」とあり、平安初期には存在していたことが知られる。又、史書ではないが、仲忠精進は潔斎するために石作寺に参籠されたが、霊験あらたかとの評判で多くの人が参っていたとある。『宇津保物語』(980)『山城誌』(1734)にも記され、薬師如来を本尊とした有名な寺であった。灰方町には「お寺に薬師堂あり、小塩へ行く道の南側の山は「薬師谷」の地名あり」とあるが、関連については 不明である。

平安時代の日本最古の物語ともいわれる『竹取物語』(9世紀始め)の場所は特定も出来ないが、 この書で登場してかぐや姫に率先して求婚した「石作皇子」は、あるいは石作郷と言ったこの地に居住した貴公子だったかも知れないし、物語の舞台はこの地だったかも知れない。かぐや姫の生まれた竹は「真竹」であって孟宗竹はまだ日本になかった。

石作氏の衰微により、後に大歳神社に合祀されたという。旧鎮座地は、三鈷寺近くの早尾神社(西京区大原野石作町灰谷丸尾1)とも、八幡宮社(西京区大原野石作町40)とも伝わっているが定かではない。しかし土人に問ふに、早尾明神(早尾神社)は後世の勧請にして、式内石作神社にはあらず、此神社の旧地は現在でも定まっていない。

山城名勝志 大歳神社

山城名勝志六七(正徳元年)(柳原家旧蔵本 書陵部)

 

 

​三代実録第二巻 延喜元年(九〇一)(国立公文図書館)

 

 

三代實録 石作 大歳神社
​三代実録第三六巻 延喜元年(九〇一)(京都大学)
三代實録

石作連 火明命六世孫建眞利根命後他。垂仁天皇御世。奉爲皇后比婆須比賣命 作石棺獻之。仍賜姓石作大連公也。 

新撰姓氏録 弘仁六年(八一五(国立公文図書館)
新撰姓氏録 石作
​延喜式第二一巻 延長五年(九二七)(国立公文図書館)
延喜式第21巻
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