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いしつくりのごうり

石作郷神社記

【京都市西京区大原野】

延喜式 石作 大歳神社

大歳・入野・石井・八幡・早尾・松尾各神社の宮司として宮仕えしているが、由緒、行事の現状を書き留めておきたい。六社を中心に筆を進めるに当って、特に大歳・入野・石井の三社は、「延喜式神名帳」(九二七)に 記された古社(以下式内社と記す)であり、その周辺は歴史が古いので、見聞きした事や諸資料も参考 として序記して置く。

昭和61年 長嶋 正彦記

延喜式神名帳(国立公文図書館)

日本では、人間は約20万年前から住んでいたと言われる(故中川修一氏)が、大原野には一体いつから居住していたのだろうか。これまで遺蹟調査がされているが、南春日町から石の槍先、有茎尖頭器(ゆうけいせんとうき)や木葉形尖頭器(もくようけいせんとうき)なる石器が発見され、この地で現在一番古い証左と言える。石器時代(約3万年前)の物と推測される。

雄略天皇の時代、長江域湖北省辺りにいた苗(みゃお)族が丹後半島に漂着、焼畑に適した田能、外畑辺りに早 く住み着いた。外畑(とのはた)には畑山と呼ぶ共有地があり、焼畑地と思われる。(「神風抄」「大日本史国郡誌」) 灰方町の上、最も高い野の背桃山峠と言う所に、約五万坪の焼畑跡があり、別名老坂峠とも呼んでいる(山口正雄氏)。

小塩山の山麓、丘陵は昔は原野で、その当時の人は草木の実を食し、獣を捕って生活していたのであろう。日本では縄文時代から米を作っていたようだが、本格的には弥生時代に大陸から進んだ文明、農耕が渡来し、米作りが定着して生活は安定することになる。古墳時代の4、5世紀、墳墓は巨大であり、6世紀のものは小型ではあるものの、最盛期となる。6世紀後半から7世紀になると、ほとんど全国的規模で横穴式石室が造られ、入口を開閉することにより何度も追葬が出来るようになる。死後観に大きな変化があった時である。この世相が今日の同家の者を同地に葬る墓の形態となったのであろう。 人々は小畑川、善峰川、小塩川沿いに棲息し、水を神格化した石井神社(坂本)、農耕の神である大歳神社(灰方)が建立されることになる。

ここ大原野は古墳が多い。長峰の西の田の中に円尾山と伝える古墳があり、斎瓶の破片が出土したと言う。淳和天皇の高 志内親王は、大同4年(809)薨去、石作地に 改葬されたとあるが、これがその墓(石作陵)で るとも言われる。長峰横穴古墳 八幡宮社はこの上に建つ。長峰大神宮古墳 石棺の中に刀剣があった由、 また、この地に大神宮と言う字名がある。石棺は石灰で固めて作られたものと聞く。

大原野の里

小塩古墳群 乙訓(現大枝・大原野・向日市・長岡京市・大山崎町)では更に多くの古墳がある。大原野は当時「石作郷」と呼ばれ、石を扱っていた石作氏繁栄の地であるが、これ等古墳との関係が深い。

日本列島の生まれた頃、京都盆地は海水が進入する江湾地帯であった。地質学的には三世紀末(約150万年以前)に活発であった断層活動の結果、陥没によって出来たと言われているが、その後隆起して河川の運んだ土砂によって沖積平野となったと言う。上羽町から長岡京市に続く長岡丘陵及び向日丘陵は古い洪石層の断層谷である。

下向川古墳 破壊されて今はない。勾玉出土ともいう。

鳥井道横穴古墳(二基)破壊されて現存しない。

平成6年頃、京都市による道路拡張時、一基は出たが石材は小学校に寄付された。

上里鏡山古墳(北ノ町) 5世紀前半のものと言う。

西山(小塩山)に産出する石灰岩や善峰寺の経堂に登る石段、岩倉寺の石段に使われた石灰石に、熟瓜、珊瑚、紡錘虫の化石が含まれることから、昔は小塩山も海底だったと考えられる。中世まで小塩町は小塩庄と呼ばれていた。「小塩」の名は、塩又は岩塩と関連があるかも知れない。あるいは十輪寺まで海水を移送して焚き干したという業平故事に拠ったものか。

在原業平は元慶4年(880)、56歳で亡くなったが、実は氏とこの地は深い関係がある。

大原や小塩の山も今日こそは 神代のことも思ひ出づらめ

在原業平『古今和歌集』

業平は十輪寺に閑居したとも言う。「伊勢物語」(成立年未詳)に、「昔男」の母は「長岡といふ所に住み給ひける」とある。又、「都名所図会」によると、「業平母の住み給ふ在所は、長岡といふと伊勢物語になん侍りける。其所は、小塩のかたはら上羽といふ里なりけり。ゆききする人々は尾花が袖萩の花妻をかかげて此所に立寄り、むかしを感じ、懐旧の和歌をよみてすぎゆくも多かりき。」とある。

小塩山は大原山とも言われた。又、上羽町から長岡京市にわたる丘は長岡丘陵と呼ばれていた。中世、 石見上里は「富坂庄」と称されていたが、大治元年(1126)頃までは「長岡庄」と呼ばれていた。上羽・石見・上里は「長岡庄」と言っていたことになる。今も上羽町に「長岡」という字(あざ)名が残る等の関連から、業平自身上羽町に住み、更に仏門に入った業平の母、伊登内親王は、あるいは上羽町の西方寺に住み着いていたのかも知れない(土地の人は西方寺は、三鈷寺の下にあったが上羽に移った、古事書はもとは 三鈷寺にあったが、寺と共に消失したとも言う)。

上羽町のもと竹薮であった処に三基の五輪塔があり、中央の大きいのが父、右が母、小さいのが業平 の供養塔とされる。明治時代まで業平の姿見の井戸と称する泉が、墓の南方半間ほどの所にあったが、現在では埋没して竹の枯葉が覆っている。(井上寿「京都民族誌」)

その西、蛭川の上には「奥殿」と称する地名が残っており、貴人の住居 跡かも知れない。継体天皇(507〜531)は、越前から大和へ入る前、 8年という短期間、国に都(弟国宮)が置かれたことを「日本書紀」第十七は記す。

十二年春三月の丙辰の朔 甲子に遷りて弟国に都す。

二十年の秋九月の丁酉の朔 己酉に遷りて磐奈(大和の玉穂の宮)に移す。

ひのと            つちのと     いわれ

ひのえ  ついたち  きのえ

とあり、ある時期おられたのは上羽の北という説もある。なお、平成10年1月、土地改良区によるブルドーザー圃場整備に私の所有地の土地から壺の破片が多く出た。須恵器と思われる。大きな柱の跡も一つであるが出たとのこと。 謡曲「小塩」は「伊勢物語」に取材し、業平が老翁の姿で花に酔いつつ舞いを舞う様など華麗に演出 されるが、その舞台はこの小塩町の辺りであったようである。

地名として「出灰」「灰谷」「灰方」があるが、これは石灰を作ったり、石灰で石を固めるために使っ た言葉が残っているとの説、染色の時使うため、あるいは石灰を朝貢に供したとも言われる。「灰方」の 地方はその扱う人という意味であろう。

「宇の山」と言う集落は駅家(うまや )の里と言い宮馬が置かれていたと言う。

大原野 歴史

【地名変更】

・乙訓郡灰方町。明治6年村社。

(明治8年、灰方・長峰・灰谷・坂本を合して灰方村と呼んだ。)

・乙訓郡石作村字東御佃。明治22年、大原野石作町となった。

・乙訓郡大原野村石作町。昭和17年3月郷社。 

・京都市右京区大原野灰方町。昭和34年石作町と灰方町に分けた(東御佃名は変更)。 

・京都市西京区大原野灰方町。昭和51年10月。

長嶋正彦前宮司様が古文書を調べ、諸文献を繙き、地域の古老の話を聞くために何度も足を運ぶなど大変苦労して書き上げ、昭和61年に初版を発行されました。此度、デジタルアーカイブとして公式ホームページを立ち上げ、研究の一助となれば幸いです。大神様の尊いご由緒を知り、愈々崇敬の心を篤くし、是非とも御参拝いただきまして更なるご利益をお受けくださいますようお祈りいたします。

大歳神社 宮司 有持圭祐

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